i. 私の150年史 ニッポンのブリキヤ

Quick Edit Pencil
第一章 私の来歴


私たちの150年、事はじめ。


私の家族について明治以前の来歴職業は定かではありません。遠い祖先は鋳掛業を営んでいたそうですが、六世の祖あたりが嘉永年間に現在の大阪心斎橋筋にあった錺屋町で奉公し錺金物職人となったと云われています。役所文書では大和国黒田郷が私たちの150年、明治開化の始まりの地となっています。

百済村、戸樋屋のはじまり


明治末頃、黒田郷の本家から分家した亀治郎は隣村の百済村に新宅本家と作業場を構えました。屋号を定めず銅板細工の仕事を主にしていた昭和十年頃までは「百済村の戸樋屋(とゆや)」と呼び慣わされていました。

亀治郎は浄瑠璃に熱心で万事芸事に通じた粋な職人でした。いわゆる遊び人として通っていましたが旦那筋では洗練された細工物を得意とする萬錺金物錻力細工職人としての評判がありました。家人からすると、芸事や宴席、頻繁に出かける物見遊山も仕事の内で、遊学から戻るやいなや新しい細工物の研究に没頭し寸暇を惜しんで技術を習得していたといいます。

物見遊山の実際は大阪や神戸への材料仕入れでした。芸事の浄瑠璃は作業時間を計るための仕事唄として稽古を積み宴席に興を添えていました。



第二章 近代日本の板金加工の歴史


ブリキヤのはじまり


幕末開港直後のブリキ板は、献上品や珍品として高値で取引されていました。幕末から明治初期の開化期の短い期間、ブリキ板は特権的な珍重材料として裕福層に好まれました。ブリキ板は銀に匹敵する高級な舶来材料として、嗜好の道具や装身具の材料として用いられました。

明治初頭から中期、金属加工に覚えのある者は、こぞってブリキ屋を名乗るようになりました。短期のうちに西洋の金属加工技術は日本古来の金属加工技術と混淆し、数多くの国風化した板金加工品が生み出されました。後にブリキ屋は様々な職業に分岐し、各所で蓄積された金属加工技術は産業大国日本の礎となりました。

明治も半ばを超えた過渡期になると、製缶技法がブリキ板とともにアメリカから本格的に輸入され、次第にブリキは生活の中に普及してゆきます。大正後期から昭和初期にかけてブリキ職人達は最盛期を迎えます。ブリキ屋の生活荒物等の手工製品は大量生産品に圧され、純粋な手工作のブリキ細工職は下火になっていきます。

近代伸銅のはじまり


大阪造幣寮が稼働した明治初頭、地場大阪の銅地金商や銅打延業者も独自に金属転圧機を導入し近代工業的な銅板の製造に乗り出しました。主に銅打延業者が熱心に研究を高めたことで、大阪造幣寮に負けない程の良品質の銅板が安定して市中に出回るようになりました。これらの銅板は、ブリキ板に用いる製缶技術が応用され、街灯、湯沸かし、銅雨樋などの様々な箱物細工、建築の材料として発達普及しました。

薄板鋼板と建築板金業の台頭


大正時代に入ると鉄道沿線の民家の屋根の不燃化がすすめられました。これは国産の薄板鋼板(ブリキ板やトタン板)の生産が成功した時期でもあります。いち早くトタン屋根葺きの職に就いたのはブリキ屋でした。鉄鋼会社や鉄鋼商は鉄板材料の需要拡大をもくろみ金属屋根の普及に力を入れました。

伸銅業界も不燃屋根材の活況を見込み、銅建材としての需要拡大に向け働きました。特に公共建物、寺社に向けた屋根材として銅板を売り込みました。こちらは古来より日本に存在した建築金物の加工職人(屋形かざり職人など)に声がかかり、銅屋根の他に銅雨樋の細工も盛んになりました。

屋根の不燃化に参入した職人たちが建築板金という新しい職業を名乗るようになります。当初は政治施策的な現場がほとんどでした。発注は商社と請負からの材料支給の依頼がほとんどでした。次第に金属屋根の施工、建築金物の加工といった板金専門職業の職域が広がり市中での仕事も増えていきました。当時の建築板金業界は赤組と白組に分かれていました。赤組は伸銅業界、白組は鋼板業界と材料の色目からそう呼ばれました。



第三章 私の技術革新の基盤と拡大


萬錺金物錻力細工處を再興


ブリキ屋や板金屋の中でも特に加工細工に長けた職人は、どこからも重宝されその技術、工作品は高く買われました。中でも機能と装飾に高度な技術を必要とする銅雨樋の製作に重用されました。

昭和の戦後、亀治郎の次男である岡本順平は本家の板金工作所から分家し、銅雨樋を主に製作販売する「萬錺金物錻力細工處(よろずかざりかなものぶりきさいくどころ)」を興しました。ここでは銅雨樋の他に戦時中に失われた錺金物やブリキ細工の復原にも力を入れました。

特に注力したのが戦時中に失われた祖父たちが製作した物品の復原でした。各地を歴訪し古老に習い、先達たちの工夫を試行錯誤しながら身に付けました。

銅雨樋の製造と人材育成が認められ褒賞を授かる


岡本順平は銅雨樋の製作、施工に関して良く研究し、昼夜工作に没頭しました。昭和五十年頃には職人一人がすべてを仕上げる昔ながらの工作施工技術の熟練を得ました。

つづいて、銅雨樋の製造に必要な専用加工機を考案し実用化に成功しました。これを自社工場で展開しパート作業員による手工製造ラインを完成させました。

考案した加工機は、日本の高度成長の住宅需要に応じるべく作業効率化を求められた伝統的な銅雨樋の製作現場に革新を促し、銅雨樋の普及販売にも貢献しました。

さらに、明治以降、日本独自に発達した銅板手工技術の継承を目的とした職業訓練校を開校し、多数の人材を育成し後継者、職業人を輩出しました。

これらの功績が認められ平成八年に卓越技能賞を受章、現代の名工の栄誉を授かりました。

恩師から「千秋萬歳大和錺」としたためられた祝いの掛軸が贈られ、明治開化から始まった近代板金加工技術により発達した銅雨樋の集大成を築き、後継者を育成した事は「まさに後世に残る大和錺である」と褒められました。

ブリキヤの原点を照らす


晩年の順平は、明治開化の街路を照らした開化燈=街路照明=軒ランタンの復元に取り組んでいました。祖父の残した照明工作品や、千切れた古い型紙と記憶を頼りに試作を繰り返していました。また古い文献や資料などを収集しました。しかし平成二十四年に癌を発病。医師から余命を宣告されました。

生存中に開化燈を復元すべく、様々な治療延命に取り組みました。しかし治療の甲斐なく病床に伏せ、平成二十五年十二月に八十歳の生涯を閉じました。病床に於いても生命を力づける源泉として、五年後に迎える明治制定150年の年に開化燈を点すべく思いを巡らせていました。

順平存命中に開化燈の復元品を完成させる事はできませんでしたが、様々な資料と口伝を後進に残しました。また順平は開化燈の復元は「生業の原点を照らし開化の歴史を次代に繋ぐ源資となる」と唱え、平成二十五年六月二十八日に屋号を「ブリキヤ銅鰐號(あかわにごう)」へと刷新、屋号印を「山ト(やまと)」と定めました。

関連記事



Keyword:Meiji150,明治150年,